「自己肯定感が高い人」ではなく、「自己肯定できる瞬間が多い人」になろう

今日は少し、踏み込んだ話をします。 飲み込めない方もいるでしょうし、 最後まで読んでも「はぁ?」となる方もいるかもしれませんし、 賛否両論あると覚悟もしています。 けど、いつもと違いかなり手こずりながら言葉にしてみたので、 よければ最後までお付き合いください。 春休みに入ってから、投稿してないのに着々とフォロワーが増えるという現象が起きています。 これ、とってもありがたい話でして、日々ものすごく勇気づけてられているんです。 Dtto交流会で勇気づけられた話でも述べましたが、赴くに至った強い動機は「クリエイターとしての認知」でした。
私の夢は、めちゃくちゃざっくりいうとクリエイティブ職で食っていく(ほんとは少し違うのですがまた別の機会に。)ことなので、 今回の招待はまさに将来への後押しとなったわけです。 交流会で出会った他のクリエイターの方からも感想・意見を聞くことができるようになり、本当に行ってよかったと思っています。 そして、この招待に至ったのは、以下の記事が大きな起因になってるようなのです。
私が書いた投稿の中で、最初に最も♡の数が跳ねた投稿でした。運営側も、この投稿で私を認知してくださったようです。 この投稿から半年ほど経った今、少し当時から変化した部分があるので、ここでお話ししようと思います。 単刀直入に言います。 「自己肯定感が高い」人は、実在しない。 実際にいるのは、 「自己肯定感の高い瞬間がひとより多い」人 だと思うんです。 ただの言い換えじゃないか、言い切って大丈夫なのか、馬鹿馬鹿しい、と思うかもしれません。けれど私はこれ、かなり真意を含んでいるといま感じています。 そもそも、 「自己肯定感が高い」ってどういう状況なのでしょうか? 自分のことが好きな状態? 世界がハッピーに感じる状態? 失敗しても挫けず立ち直れ、また成功体験を積むエネルギーがある状態? 人生が幸せな状態? その状態って、ずっと続く? 不況でも?大切な人が亡くなっても? 失恋しても?大病になっても? 志望校に落ちても? 精神的自由や経済的自由が奪われても? それでも、自己肯定感は高くあれるだろうか。 生まれた頃から否定されている人は、もう「自己肯定感が高い人」にはなれないの? 何かで挫折した人は、もう「自己肯定感が高い人」ではなくなるの? 一度でも自分を肯定できなければ「自己肯定感が高い」人じゃなくなるの? なんか、自己肯定感自己肯定感って、うるさい… つまり、世間一般に囁かれる「自己肯定感が高い人」というのがかなりあやふやで、存在するなも疑わしいものであると言いたいのです。 「瞬間最大風速は〇〇km/hでした」と言われても、もう次の瞬間にはその時速の風は吹いていないかもしれません。 「私は自己肯定感が高い」と思ってる人だって、明日突然飼い犬が亡くなればどん底に陥るかもしれないのです。 「何がいけなかったんだろう。ご飯が悪かったのかな。私の世話が足りなかったのかもしれない。いや、誰かがこの子に何かしたのかも。もう何も信用できない。」 極端な話なのは承知してます。が、自分のことも誰かのことも、世界のことも信じられなくなる可能性があるかもしれません。 そ の 瞬 間 は 。 逆も言えます。「僕は自己肯定感が低い」と思ってる人だって、普段しない自炊で想像より美味しく作れた時は、なんだか少し幸せになるかもしれません。 「卵、いいやつ買ってみたけどやっぱ美味いな。なんなら焼き色も綺麗かもしれない。店で出るやつみたいじゃん。普段絶対そんなことしないけど、友だちに写真でも送ってみようかな。え!今度食べたいだって。やってみるもんだなあ。」 極端な話だけど、自分に対する期待、誰かに対する期待が増し、世界を信じる一歩を踏み出すかもしれません。 そ の 瞬 間 は。 なので、自己肯定感が高くないのはダメだと苛まれている人がいたら、まずは 「自己肯定感が『絶えず』高い人になるのを諦めること」 から始める必要があると思うのです。 私は「自己肯定感上げてこう」キャンペーンは、ポジティブの暴力になる可能性も孕んでいると感じます。 「自己肯定感の低い人」に当てはまる人たちが、義務感で自己肯定感をあげようとし、自己肯定を強制される状態になる。 そもそも「自分を肯定するかしないかを選択できない」って、果たして良い状態なのでしょうか。そこに悩み考える余地は、許されないのでしょうか。 それに、「自己肯定感」という言葉自体、学術的なものではない俗語的なものであり、「自己肯定感」という名前で行われている研究自体がそもそもないそうなのです。あるのは「自尊心」に関する研究で、「自己肯定感」とはそれらに関連したものをかなり噛み砕きあやふやにした言葉であるようなのです。つまり、「自己肯定感」という言葉そのものがかなりいい加減なものらしくてですね…。今回これについては、これ以上触れませんが…。 (なんかもう「自己肯定感」って書きすぎて疲れてきましたいっそ略したい…。) とにかく、私たちは「自己肯定感がずっと高い状態などない」ということをまずは受け止め、 「自己肯定感が低い自分の存在を確認する」ことからまず始めるべきなのではないか。 自己肯定感を高めたいと願うならば。 そう思うわけです。 そして、 「ダメな自分にOKを出すこと」、 「自分の自己肯定感が下がっていることを認め、それを拒絶しないこと」が 少しでも自分を信じ、励まし、幸せになるのに必要なのではないか。 これが、時を経て更新された私の「自分に対する愛」の全貌になります。 いいものばっかりコレクションするのは簡単なんです。 だって好きだし、綺麗だし、手をかけてる自信があるし、いつまでも見てられるから。 でも、私たち人間にはドロっとしたところも、闇が立ち込める部分も、えげつない一面もあるわけです。 人には決して見られたくない、見せたくもない、見せたいけど見せられない、見せてはいけない。 自分自身でも触れたくないような、目を背けたくなるような。 血と涙と埃と、嫌悪と憎悪と怒りと惰性と欲望と…。 切り離そうとすると激痛を伴うような、瘡蓋(カサブタ)のようなところを、皆ではなくても確かに持っていると思うのです。 瘡蓋の大きさや傷の深さ、治りの遅さや、傷が外部に晒され傷つきやすいか否かなど、違いはあります。 誰かに見せるとギョッとされてしまうかもしれない、そんな傷が。 気づいて苦しんでいるか、気づかないで済んでいるかというだけで、あるにはあると思うんです。 この文章でもし、あなたの傷に触ってしまったようなら、ごめんなさい。不快にさせて、ごめんなさいね。 見なくて済む方が、幸せな時だってあります。 でも、だからこそ、瘡蓋があることを見つけてしまったら、あなた自身だけは責めたり憎んだりせず、ただ 「ある」 と認める。 そしてそこに傷跡があることをあなただけは「OK」と認める。 いつまであるのかも、消えてなくなるかもわからないけれど、「これも私(の一部)だ」と、まずは認める。「こんなの私じゃない」なんて言わないでいてあげる。 まずはあなただけが、密かに、そっと、手を添えてやる。 自己肯定感が高い状態をいかに保てられるかも大事だけど、低い状態といかに付き合っていくかも大事なのではないか。 そんなふうに、今は考えるのです。 どうしたって生きていれば予測できないことの連続で、その度私たちはいろいろ対処したり努力したりするので。 そのためにまず、「ダメな自分にもいったん、『そこにいていい』ということ」、「居心地が悪いと感じたら、そのときはじめて『どうすべきか』もがいてみる」。これが、本当に自分を肯定するということなのではないかと、今は考えているのです。 自己肯定感が高い人は、 いるかもしれません。 しかしそれは多分、「その瞬間の自己肯定感が高い、その人」であるとわかれば、 「自己肯定感を高めなければならない」という二重苦からは一歩抜け出ることができるのではないでしょうか。 私自身もまだ実験中で、また考え改めることがあるかもしれないけれど… 今はそんなふうに考えています。 昨年の自分や、半年前の自分は、こんなふうに決して考えてなかったです。 でも、もう21年ひとまず生きたので、次の私の20年に必要なのは、こんな力かもしれないなあ。 これから生きる20年では、私を受け止めることはもちろん、それと同様に、自分の大切な人たちを受け止めていく力をつけられたら、なんだかいいかもしれない。 そんな薄い期待を寄せている、今日のお話でした。
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