生命倫理 間引きや堕胎の是非

東京理科大学
現代社会における生命倫理学はキリスト教哲学から構築されています。  一方で、我々日本人は古来より仏教的倫理観の下で生活してきました。 例として、姥捨山や堕胎などがある。 江戸時代、キリスト教の宣教師フランシス・ザビエルは日本人の道徳的高貴さに関心したが、一方で間引きや堕胎が極めて簡単に行われていることが我慢できなかった。そこで、宣教師達は教会の前に子捨ての箱を設置した。 しかし、間引きや堕胎は限られた村や家族といった共同体を維持するのに必要なことであった。 姥捨山では、生産能力がない老人が自分達の存在は共同体を維持する上で負担となっている事を自覚し、限られた食料や物資を維持するために進んで死を受け入れた。 堕胎に関しても、胎児を産んで育ててもその子供や自分自身の生活が困窮するのが目に見えているのでやむなく堕胎を行った。 我々日本人は言い換えれば、「小さな命を大切にする」と言った価値観、倫理観が欠如していた。一方で共同体の維持「つながりの命を大切にする」と言った価値倫理観で生活していた。 対して、キリスト教などの一神教によく見られる多産主義は、その逆だと言うことができるかもしれない。 現在、こうした食料事情による間引きなどは、ハーバーボッシュ法などによる肥料によって解決されたが、近年人口が爆発的に増加している地球という共同体において、資源や食料問題が再び浮上しつつある。 今後、現在の生命倫理学(キリスト教哲学)では太刀打ちできない状況になった時、 我々は昔の日本のように間引きや堕胎などを行うべきなのだろうか? もしくは、そう言った事が行われないように人口増加をソフト面から抑制するべきなのだろうか?
sticker
ps 来週の倫理のテスト勉強を1人でしていて行き詰まったので、皆さんの意見も聞きたくなり投稿しました!!  直感でも、自分の倫理学的立場からでもご自由にご意見をお聞かせください!!🙇‍♂️
Like
18
2